音楽評論家 大伴良則の音楽のまんよう

Fame. その25

2017.09.21

 (前回から続く)

 ジュリアン・テンプルが言うには、彼がデヴィッド・ボウイと話したのは1974年の、クリスマス間近の年末の事で、場所は、米国ニューヨークのソーホーにあるスコットランド・パブだったそうだ。

ジュリアンはまだ映画青年で、ボウイが、その年に始めた長い“ダイアモンド・ドッグス/ソウル・ツアー”の記録フィルムのカメラ・クリューのスタッフに応募して、ツアーの一員として働く内に、ボウイの目にとまったらしい。

「ハードなツアーでね。もの凄いアート・セットを街から街へ運び、ステージ・セットの係は一日21時間も働いて、何人か倒れたよ。カメラ陣はそれ程でもないけど、それでもクタクタになった。新米の俺が、メインのカメラマンの代わりを務めたりもして、その撮影フィルムを、コンサートが終わった後にボウイがチェックする・・・先ず、タフな男だな、と思った。目がギラギラしていて、これは、リトル・ヘルパーを少し使っているな、とすぐに気づいたけどね。君、リトル・ヘルパーって解る?」

 解るよ、そんな事。コカインの事だろう? これでも“忙しい母親が、家事と仕事と育児に疲れ果てている…ほんの少しマザーズ・リトル・ヘルパーをあげたらどうか? それは罪かな? ドクター、プリーズ…”と歌ってるローリング・ストーンズの名曲でとっくに知っているさ…とやはり心の中で呟きながら、僕は黒ペンでメモをとっていた。

こんな話、どこの雑誌が載っけてくれるんだ? と思いながら青ペンで線を引いていたのを覚えている。

案の定、小学館の、マガジンハウスの、読売新聞の担当編集者に拒否され、これじゃボウイが死ぬまで口を閉じているしかないな、と思っていたら…本当になってしまった。

ボウイの名誉の為に言うが、ボウイは、プリンスのように、マザーズ・リトル・ヘルパーのせいで亡くなった訳ではなく、普通の中期高齢者と同じく普通の病で亡くなっている。念のため。