音楽評論家 大伴良則の音楽のまんよう

Fame. その7

2016.07.13

 (前回から続く)

 アルバム『レッツ・ダンス』('83年)で、デヴィッド・ボウイが共同プロデューサーに選んだのはナイル・ロジャース(Nile Rodgers)だ。

そのニュースが音楽誌などに先行して報じられた時、半分は驚きをもって、半分は“さすがのボウイも、ここでポップ・ヒットするアルバムを作らなければヤバいと考えたんじゃないか・・・”といった中傷めいた報道だった、と記憶している。

 ナイルは、「おしゃれフリーク/ Le Freak」('78年)の全米No・1・ヒットで一躍有名になったニューヨークのソウル/ダンス/ファンク・グループCHIC(シック)の中心人物で、独得のリズム感とトーンのリズム・ギターの名手。

同時に、長年の相棒のバーナード・エドワーズ(Bernerd Edwards)のベース・プレイと組んでの作曲力や編曲力には、当時のディスコ・ブームの中でも抜群に目立つものを持っていた。

自身のグループCHICの活動だけでなく、ダイアナ・ロス、アレサ・フランクリン、デュラン・デュランなどのヒット作を次々にプロデュースする、いわゆるヒットメイカーとして乗りに乗っていた。

特に、マドンナの出世作『ライク・ア・ヴァージン』のプロデュースは、1980年代のアメリカ、少なくともニューヨークのサウンドを代表する作品として、現在でもよく知られている。

しかし、いくらヒットメイカーでも、ベルリンに長く滞在し、3年も沈黙していたボウイから声がかかるとは、ナイルも、音楽業界の人達も全く予想していなかっただろう。

 僕は、そのナイルのCHICのヒット曲を収めたアルバム『エレガンス・シック/C'est CHIC』の日本盤ライナー・ノーツを始め、CHICやナイル・ロジャースのソロ・アルバムなどほとんどの作品のライナーを書いているライターだったので、ボウイのインタビューの依頼は全然無かったが、ボウイの『レッツ・ダンス』発表時やその後も、ナイルのインタビューの機会は度々あった。

つまり、ナイルの専門家として認識されていたのである。