音楽評論家 大伴良則の音楽のまんよう

Night In Tunisia(チュニジアの夜)(その1) [2/2]

 首都チュニスのライヴ・クラブについて教えてくれたのは、SOULⅡSOULの中核メンバーだったネリー・フッパーだが、そのネリーと共にシンニード・オコナー等をプロデュースし、ドラマーとしてだけでなく尖鋭なプロデューサーとして乗りに乗っていたGOTAこと屋敷豪太(やしきごうた)をロンドンに訪ねたのが1993年の事。

レゲエ/スカ・バンドのミュート・ビートやMELONのドラマーとして注目された後、ロンドンに渡り、SOULⅡSOULからシンプリー・レッドに至るイギリスのトップ・クラスのユニットやバンドのリズム・マン兼プロデューサーとして活躍後、ソロ・アーティストとしてデビューする際のインタビューだった。

海外在住の、しかもロンドンの先鋭なシーンで活躍する人だけに、少々緊張したが、彼が、京都の綾部(あやべ)の出身で、僕の育った故郷とそれ程遠くはなく、しかも子供の頃、何度か名物の菊人形を観に行った事のある土地の産だと知り、彼の作り出すとてもロンドンっぽいビートやサウンドが身近なものに感じられるようになった。

その時、チュニジアの古都チュニスや、名曲「チュニジアの夜」についても少し話したが、2年後の'95年、そのGOTAが、デイジーやチャカとも全く異なる自分のスタイルで「チュニジアの夜」をレコーディングするとは想像もしなかった。

京都や兵庫の北部とアフリカ北部とが一気につながってしまう不思議な親近感を感じて、おまけに、自分の1950年代の少年の日と21世紀近くの日とがあっという間に連結し、音楽、そして音楽が流れる映像や場面の恐しい程の力も感じさせられたものだ。

 そんな不思議な縁のあるチュニジアと、それを描いた「チュニジアの夜」という縁深い曲に対する呑気な思い出のままに、僕の異国の特別の地への憧れは続いていくものだと考えていたのだが、2015年の新年明けて間もなく、全く違う映像や記憶をつきつけられる事になった。

過激派組織イスラム国(IS)支持のメンバーによる博物館襲撃事件・・・「アラブの春」、つまり、アラブの民主化のモデルとしてのチュニジアを狙う乱暴なテロの報道を観た時、正直なところ、政治や宗教の混迷混乱といった事より、「チュニジアの夜」という曲が僕に長年運んでくれた夢の数々を一瞬にして踏み汚されたような事として感じてしまったのである。(次回へ続く)