音楽評論家 大伴良則の音楽のまんよう

Fame. その31 [2/2]

MOTOWNは言うまでもなくモータータウンのデトロイトを指し、自動車産業の中核を担って繁栄したアメリカを象徴するネーミングだった。

しかし、安い日本車に押され、モーター都市もさびれ、金曜の夜を楽しみに明るく工場で働き、その夜にはバドワイザーを呑んで「マイ・ガール」を大合唱していた黒人労働者は失業して街を彷徨い、キャスリン・ビグローが描いたような暴動の街デトロイトを新たに造り始めたのである。

 その変わり目の頃だった1968年、「マイ・ガール」でリード・ヴォーカルを務めたスムース・ヴォイスのデヴィッド・ラフィンがグループを去り、テンプスのリード・ヴォイスにデニス・エドワーズのゴジラの吠え声ヴォイスが新たに加わった頃。

そして、J・F・ケネディ大統領が撃たれ、ベトナム戦争に米国が本格的に入りこんでいく頃。

 今は亡きデニスがリード・ヴォーカルをとるようになったテンプスの歌は激変した。

クラウド・ナイン(Cloud Nine)」「I Can't Get Next To You」「サイケデリック・シャック(Psychedelic Shack)」と、まるで黒いロックのような曲をたて続けに発表し、それを僕は、コマ劇場裏の喫茶『巴里』で聴いた。

「マスターのコーヒー、この頃ニガくなっちゃってよー」と常連客がヒソヒソ声で囁き、店から遠のき始めていた。

極めつけは、テンプスが、混乱する地球を歌った「ボール・オブ・コンフュージョン(Ball Of Confusion Thats World Is Today)」、そして、父親がフーテンで、とうとう新学期9月の末に家から消えてしまった、という少年の家の崩壊を歌った「パパ・ウォズ・ア・ローリング・ストーン」。

この画期的な曲を聴いて、僕の脳に新しい電極ができ、身体の他の神経の何処かが消えた時、『巴里』の古い客は僕ひとりになっていた。(次回へ続く)