Fame. その26 [2/2]
ルネ・クレマン監督が、パトリシア・ハイスミスの書いたサスペンス小説を映画化したのは1960年。僕がこの映画を観たのは、翌年の'61年の初夏のこと。小学校6年生だった。
観た、というより、観せられたのが正確。
「男前、観にいくよー」という母親の一言で、半ば強引に映画館に連れていかれたのだ。
当時の映画館には、薄暗い電球のついた売店があり、映画の幕合いだろうが上映中だろうが、母は「サイダー買ってきて」と平気で頼み、僕は、また別の意味のマザーズ・リトル・ヘルパーとして売店に駆けていく…途中を観のがして、サイダーを持ったままスクリーンに目を移すと、トム・リプレー(A・ドロン)が、殺してしまったフィリップ(モーリス・ロネ)のサインを拡大スライドで、壁に貼った白紙に写し、その筆跡を必死になぞる…富裕な遊び人のボンボンのフィリップになりすます為の、貧しい美男トムの鬼気迫るシーンは、目に焼きつくどころか、身体の中にタトゥーのように刻まれてしまった。
そして、映画の途中なのに、小声で「悪い奴だねー。男前はこうでなきゃ」と、まだ子供の息子に向かって母は言った。「なんで?」
いまだに意味が解らぬ一言で、母の位牌や墓に参る時、時々問いかける事がある。
地中海の上に浮かぶヨットの甲板が、目一杯の陽光に晒される中で、トムがフィリップを殺害するシーンを始め、最後に犯罪がばれて、トムがヨットからこちらに向かって歩いて来るシーンまで、この映画は、本当に明るい太陽がいっぱいだ。
犯罪シーンは、暗い森の中とかビルの階段だったりするのが常套の設定なのは現代も同じ。
その点だけでも画期的で、ルネ・クレマンの斬新さは際立つが、ほとんど笑わず、常に陰をたたえた冷たさを放つドロンの美貌は唯一無二で、ニーノ・ロータの、陽光がふり注ぐ明るさと哀切が同居した音楽が、それを更に増幅させた。