音楽評論家 大伴良則の音楽のまんよう

Fame. その2 [2/2]

 僕にいち早くボウイの存在を教えてくれたのは、故郷の兵庫で、小中高校と同じ学校に通っていた同級生の谷岡くんだった。

幼い時から、言葉もしぐさも女の子っぽい彼がホモ・セクシャルの人であり、洋裁や折り紙の技術が半端ではなく、その分スポーツが苦手だという事には気づいていた。

ボウイのヘアー・スタイルを先取りしたような髪を早くからやっていて、いつも綺麗にセットしている。

それが上級生の不良達のカンにさわったのか、高校2年の時に呼び出され、その自慢のヘアー・セットをぐちゃぐちゃに乱される事件があった。

ちょうどその現場を通りかかったものだから、不良達を止めたら、「お前も生意気だと思っていたんだ!」と怒鳴られ、髪を乱される事はなかったが、数発殴られた。

 それを覚えていたのかどうか、高校卒業後に東京渋谷の美容理容専門学校に進んだ谷岡くんが、夏休みで帰省中の僕を訪ねてきて、まだ慣れぬ東京の街の事などを話しながら、「デヴィッド・ボウイって人がロンドンで話題を呼んでて、とっても素敵!『スペイス・オディティ(Space Oddity)』ってレコード、聴いてみてね」と話した。

その頃は、ビートルズの解散と、どうしてローリング・ストーンズがウッドストック・ロック・フェスティバル(1969年)に出ないのか、という事ばかり考えていたから、気にも止めなかったが、その谷岡くんが、間もなく、海水浴旅行の帰りの沿海道路での自動車事故で急死した事を聞き、急に、熱っぽく語っていたボウイが気になり始めた。

今でも、『スペイス・オディティ』や『アラディン・セイン(Aladdin Sane)』('73年)、1960年代に、ガリガリの“小枝ちゃん”と呼ばれブームを巻き起こしたモデルのツィッギー(Twiggy)とともにジャケットを飾っていたアルバム『ピンナップス(Pin-Ups)』('73年)などボウイの初期の作品を聴くと、谷岡くんの独得の髪と表情を思い出してしまう。

           

 同級の彼が生きていたら、僕と同じく67歳。

デヴィッド・ボウイが、彼や僕の前で凄んでみせた2級上の不良高校生達と同じ歳で、全く異なるキャラクターをどんどん作り出し、ロックにキャラクター創造という面白さを持ちこみ続け、ごく普通の69歳の初老の人として亡くなった、と知ったら、なんて言うだろうか?

それより、『ヤング・アメリカンズ』('75年)の普通の短髪ヘアー・スタイルになったボウイの姿についてどう思うのか、聞いてみたい気持ちになる。(次回へ続く)