音楽評論家 大伴良則の音楽のまんよう

ブルーにこんがらがって3 :WHAM (ワム)[2/3]

 WHAMは、ギリシアからの移民を父に持つジョージ・マイケルが12歳の時、転校先の中学で、相棒となるアンドリュー・リッジリーと出遭ったのがきっかけで生まれた。

いわば、幼ななじみのデュオ・グループである。

 デビュー当時から、作曲もプロデュースもリード・ヴォーカルもジョージひとりがやっているので、アンドリューは“側に立っているだけのゲイ友(ゲイの友達)”とゴシップ誌に出ていた。

だが、音楽のコンセプトやファッションのアイデア等はアンドリューからのものが多く、もしWHAMがあの二人の形態でなければ、80年代的明るさに満ちた「ウキウキ・ウエイク・ミー・アップ」や「ラスト・クリスマス」のようなポップ度数の高い曲は生まれなかっただろう、というのが定説。

ひょっとしたら、アメリカのアンダーグラウンドな情報にも目ざといアンドリューが、かなり変わった二人組WAS(Not WAS)の存在を知っていて、あの珍曲をジョージ・マイケルに教えたのかもしれないとさえ想う。

 そんなWHAMも、世に出てからの活動期間は短かく、わずかに4年余。

既に、西城秀樹や郷ひろみが日本語カヴァーまでした名曲「ケアレス・ウィスパー」をソロ名義で発表していたジョージは一気にソロ活動に進む。

そして1986年、最後のアルバム『The Edge Of Heaven』の中にぽつんと入っていた「哀愁のメキシコ(Where Did Your Heart Go?)」。

ジョージ・マイケルのソロ名義ニュー・シングルとしてではなく、Whamとしての最後のシングルに選ばれた。

やはりアンドリューの提案による選曲なのか?


 僕は、迂闊にも、WHAMのラスト・アルバムを真面目に聴いておらず、ずっと記憶の引き出しの中に入りこんでいたWAS(Not WAS)の気になる曲を演っているなんて、しばらく知らなかった。

そして、品川駅前の再開発の皮切りになった商業ビルの青い壁のビデオ・プロジェクターで、別の衣を着たその気になる曲と出会い…考えてみたら、随分長い間、単にお気に入りの曲という以上に…まるで自分に取憑いた楽曲のひとつのように何度となく思い出すのをくり返している。